Archive for 2009年4月

大阪女児活遺棄事件

4月 30th, 2009

2009年4月

大阪で9歳の女児が、虐待されベランダに放置され死亡したため奈良県内に遺棄されました。

女児は、実の母親と母親の再婚相手の男、その男の息子6歳と住んでいました。

女児が死亡した日の前日には、女児以外の家族は楽しく外食をしていたそうです。

女児はしつけの範囲内としてベランダによく放置されていました。

他の家族が楽しく外食をしていた夜から次の朝にかけて、女児は冷たくなって死んでいたようです。

虐待の兆候があったにも関わらず、学校が対応をしていなかったとして文科事務次官が非難をしているそうです。

この事件は本当に悲しい事件です。

ここ女の子の母親が鬼のように思えます、再婚相手の男が鬼のように思えます。

この親を非難して鬼のようだとののしることは簡単です。しかし、この事件の本質を想像すると、親を非難するだけではこういった事件は無くならないと思います。

実際に今日も、どこかで虐待されている子供たちがいると思います。

虐待されて死んでしまったから大きな問題になっていますが、虐待されながらいき続けている子供たちは今の日本に何千人、何万人いるでしょうか。

そういった子供たちが、心に傷を負って、さらに自分の子供達に同じ過ちを犯す。そういったことが連鎖しているのです。

このような行動を平気でできる親は精神的な病としか言いようがありませんね。

文科事務次官が学校を非難しているようですが、現実がまったく想像できていません。虐待を受けた形跡のあるような子供に対していちいち学校の先生が対応できると思っているのでしょうか?

物理的に無理だし、学校の先生にそこまで頼ると言うのはどういうことなんでしょう。もっと本気で考えるべきです。

僕は、貧乏な漁師町に育ったので、虐待を受けていた子供たちを何人も知っています。その中の一人は活きているのが苦しくなって自殺してしまいました。

一人は、義理の父親からナイフで腕を刺されて血だらけの手をタオルで押さえていました。病院にも行かずに治った手にはムカデのような大きな傷跡が残っていました。

彼らの心からは人を信ずると言う心は奪われていくでしょうね。

どうやったらこういった悲しい事件がなくなるのか、隠れた虐待を無くす事ができるのか。

今の日本は強者が弱者に対して牙を向けるだけの社会に成り果ててしまっているんでしょうか。

日本はもっと健全な社会に回復しないといけないと思います。

お尻の拭き方

4月 27th, 2009

いろいろ経験しているとお尻の拭き方もたくさんあることに気づく。

お尻の拭き方は誰にも教えてもらうことができないので自分のやり方でやってしまう。

与えられた道具でやるしかないわけである。

他人との接点のあまりない個人の文化だと思う。

僕が驚いたお尻の拭き方はティッシュペーパーをぐるぐるに包帯のように手に巻きつけて吹くというやり方。

めちゃめちゃティッシュもったいないやん。

僕みたいな貧乏人はたくさんティッシュを使うくらいなら少々手にうんこがついたほうがまし的な考えだからびっくり仰天。

ふと気づいたのだが、最近うちのトイレットペーパーの減りかたが半端じゃない。

気づけばうちの娘が手にぐるぐるティシュを巻きつけて同じことやっていた。

ぐぅおらー

なにしとんじゃ~!

トイレットペーパー無駄使いするぐらいなら手にうんこつけろと教え込んでおきました。

もっと仰天したのが中国人はロープでお尻を拭くらしいです。

しかも使いまわしらしいです。

中国人はすごく強靭な肛門様をお持ちですね。

個人の文化といえばセックスもそうですね。

ある芸能人が映画の撮影中にラブシーンがあって監督にどうやって良いか聞いたらいつものやり方でやってといわれたそうです。

いつものやり方ゆうてもなんでみんなの前で発表せなあかんのや

間違えていたらどうすんねん

と言ってました。

これは本当にうなずけますね。

人のセックスを見るのはなかなか難しいからそこには二人だけの文化が生まれます。

それが愛といえば愛なんでしょうね。

昔の人は秘め事なんて上手い表現の仕方をしましたね

想像力が足りないと乏しいセックスになってるかも知れないから、一生懸命秘め事をしてもらいたいですね。

でも考えてみると面白いですよね。

誰にも教えてもらっていなくても子供は作れる。

そういった教えてもらえなくても目的を達成できることが、人の本当に求めてるものかもしれないですね。

うそつき父ちゃん

4月 27th, 2009

僕はうそつき父ちゃんと呼ばれています。

僕には6歳の娘と5歳の息子がいます。

時々わざと子供達にウソをついてみるのです。

最初の頃はそうやって子供をからかっていると妻に怒られたものです。

かわいそうだからやめなさいと。

でも僕はそれが必要だからやっていると説明して、そうしているうちに妻も趣旨を理解したのか何も言わなくなった。

子供達もいつウソが出てくるか考えるようになった。

例えば僕は、一つのみかんを持ってこれは何個あるでしょう?と聞く。

すると子供達は1と答える。当然の答えである。

そこで僕はこれは2個あると答える。

子供達は2個じゃなくて1個であることを主張する。

そこで僕はみかんを二つに割ってほら二個じゃん

という。

子供は僕の事をうそつき呼ばわりする。

そこで今度はひと房だけ残して何個かと聞く。

今度は割りようがないので一つしかないと思って子供達は一個と言う。

僕は0個だといいながら食べてしまう。

そうすると娘は当分の間、数を聞いても答えてくれなくなる(笑)。

なぜこういったことをするかというと、物を考えるためである。

時々ウソを交えることで、本当のことかどうなのか考えないといけなくなる。

本当のことばかりだと思っていたら考えない頭になるだろう。

ついつい人は正解が一つであることに安定を求めてしまう。

その瞬間に人は頭を使わなくなるんだと思う。

そこにあるみかんが一つかどうか疑って見た瞬間に話が面白くなる。

一つのみかんが一つのみかんであったってつまらないと思うのはうそつき父ちゃんだからでしょうか。

人は生まれながらにして平等か

4月 26th, 2009

平等という言葉がある。

どういう意味だろう?

等しく平らに分けるという意味だろうか?

そんなことは不可能じゃないだろうかと思う。

例えば一つのケーキを二人に分ける。

半分に切って分けた。

これって全然平等じゃない。

例えば一人が横綱曙で一人が池のめだかだったら、池のめだかのほうがもらいすぎのような気がする。

じゃあ、体重で分けるのか、身長で分けるのか?

曙 身長203cm、体重233kg

池のめだか 身長149cm、体重51kg

え?どうやったら平等なの。

まあ、これは極端な例だが、小学校1年生と6年生が分ける時には気をつけないといけない。僕は長男だから言うが、2等分するやりかたは弟が時々得をしている。

え?

細かいことを言うな?

じゃあ、もっと大きなことを考えてみます。

1億円財産のある家に産まれた人と借金1000万円ある家に産まれた人は平等でしょうか?

病気を持って産まれた人と健康に産まれた人が平等でしょうか?

男と女が平等でしょうか?

一生を左右するこんな大きなことが違う以上、平等という言葉を軽々しく信じてしまったり使ってはいけないんじゃないかなと思います。

こんなにも違うものをどうやって平等にするんでしょう?

むしろ平等じゃないことを受け入れた上で生きたほうがいいんじゃないかなと思います。

単純に平等だと主張していたら計算間違いが起きているんじゃないでしょうか?

平等じゃないからこそ、有利な立場の人がしないといけない何かがあるはずです。

サンカラその1-1972年2月6日

4月 25th, 2009

1972年2月6日に僕は生まれたらしい。1972年2月6日にそれほどの意味があるとは思えないが、この37年間、重要な書類には必ず1972年2月6日生まれと書かされる羽目になった。そして僕は毎年2月6日を迎えるたびに周りの人から祝ってもらっている。

そう考えると人はつくづく物事を単純にしたがると思う。確かに、1972年2月6日の雪の降る深夜、胎盤に包まれた僕の体がこの世に吐き出された。その瞬間から、僕は呼吸をし、泣く事をはじめ、別の生き物となった。それをみんな口をそろえて誕生日だという。

だけれども本当は僕がいつどこで誕生したのか考えれば考えるほど分からなくなってくる。受精した瞬間が僕の誕生した時だったのかも知れないし、卵子と精子だった時から僕は僕だったのかもしれない。そう考えると、僕は卵巣と精巣でバラバラに生まれていたのかもしれない。

いや、もしかしたら僕の父親が宮島で勇気を出して母親に声をかけたときが僕の誕生だったのかもしれない。

そう考えると僕はその昔どこにも存在していなかったのだ。存在するかどうかも分からない状態だった僕が、いつの間にか物質をかき集め、僕と言う形を形成し、僕と言う意志を持ち、僕と言う生き方をしている。

僕は愛と言うものの線上に存在するのかもしれないし、性欲の末の産物かもしれないし、エゴの塊かもしれない。

僕は一体何度精子になり、何度卵子になりここまでたどり着いたのだろうか。とてもじゃないけど1972年2月6日に生まれたと簡単には言い切れないほどのものが僕の体の中に入り込んでいるような気がする。

男の乳首について

4月 25th, 2009

高校の頃の担任の数学の先生が「男の乳首がなぜあるか不思議でしょうがない。」と言っていた。

「男は母乳を子供にあげないから必要ないのに乳首がついている。」

「ずーっと考えているがいまだにわからん。」

としきりに言っていた。

僕は自分なりの答えを持っていたのでアホやなあこの先生と思っていた。

自分がそういうことを考えていると言う事を生徒にアピールしたかっただけで、まじめには考えていなかったんじゃないかなと思う。そうでなければ本当にアホやなと思う。

いや別にその先生が男の人になぜ乳首があるかの答えを持っていなかったからといって軽蔑をする気は毛頭無いが、

オレはいろいろ考えているんやで~

みたいなアピールをしている時点でもうあんまり物を考えていない証拠じゃないかなと思っていた。

せめて自分なりの考えを示してから生徒に語りかけるべきだと思うのだが、分からないと言う事を語りかけるのに自分は考えていると言う事をアピールする以外になんの目的も価値もないんじゃないかと思う。もしくは、お前らも当然分からんやろという見下した感覚だろうか。そういうことに敏感に反応していた自分も若かったんだなあと思う。まあ、答えは持っていてもその先生は嫌いだったから教えなかったけど。

その当時僕は、男に乳首がある理由は、

人は生まれたときには男にでも女にでもまだどちらにでもなれる体が与えられているからじゃないかと思っていた。子供の体はまだ男になるか女になるか命令を受けていないわけだからどちらにでもなれる体じゃないと困るんじゃないかなと思っていた。

大人になった今、同じ事を聞かれたら、

性感帯の一つとして利用するため

とか

趣味で猫に吸わせるため

とか

乳毛で隠すため

とか答えるだろう。

理由は幾らでもあるはずだ。

コーヒー

4月 24th, 2009

僕はコーヒーを良く飲む。

一日3杯くらいは飲む。

中学生位から飲んでいるのでもう20年以上飲んでいることになる。

僕の実家は昔喫茶店を経営していて、母親の入れたコーヒーがおいしかった。なぜか同じコーヒー豆と同じ道具を使ってもアルバイトで来ているおばさんが入れたコーヒーはまずかった。これは僕だけが思っていたのではなくて、お客さんもはっきり言っていたので確かな事だ。同じコーヒーでもおいしいものとそうでないものがあると知った僕は少し得意になってコーヒーを好んで飲むようになったのかもしれない。

基本的にはドロップしたコーヒーを飲むが、缶コーヒーだろうがインスタントコーヒーだろうが、いろいろなコーヒーを飲んで素人なりの評価を下して楽しんでいる。

コーヒーの飲み方でセックスの好みが分かると言う話を聞いたことがある。缶コーヒーを好んで飲む人は手軽なセックスを好み、豆から時間をかけてコーヒーを入れて飲むような人はじっくりとしたセックスを好むと言う。僕はどっちのコーヒーも飲むけれどもできるだけおいしいコーヒーを飲みたいと思っているから、セックスのほうもそういう感じだろう。

ある時、コーヒーにはカフェインが入っているのであまり飲まないようにしていると言う人と出会った。彼は、コーヒーを飲んだ後はガッとテンションが上がるのだが、少ししたらグンと下がるので飲まないように気をつけていると言っていた。そう言われて意識してみると、確かにコーヒーを飲んだ直後はガッとテンションが上がりその後テンションがダウンしている気がする。どうやらコーヒーの飲みすぎは良くないようである。

ところで、僕がカナダのマクドナルドで初めてコーヒーを注文した時、店員が間違えてどでかいコーラ(コーク)を持ってきた。英語もそれほど自信が無かったので文句も言わず渋々コーラを飲んだ。後で調べてみると英語の母音には長いものと短いものがあるようで、コーヒーのコは短い母音らしい。なのでカフィという感じで発音しないとコーラが出てくるので注意して発音する必要がある。