Archive for the ‘感じたこと’ category

運転のうまいへた

2月 25th, 2010

僕はバスに乗って毎日仕事に通っている。
日によってはひどく運転のへたな運ちゃんがいる。
運転のうまいへたというのは、人によって基準が違うかもしれない。
僕の思うへたな運ちゃんは、
ブレーキや加速が急であったり、揺れがひどい運転手である。
こういう人はおそらく、速く運転する事が上手な運転の仕方だと思っているはず。

僕は、ひどく揺れるバスの中で本を読んでいると気持ち悪くなってくるので本を読むのを止める。
僕が運転手だったら、揺れができるだけ少なくなるように気をつけながら運転するのになあ。
ブレーキとアクセルをできるだけ使わないように運転すれば、使うガスの量も少なくなるので、経済的でエコ的だろうに。

僕は、同乗している客の気持ちを考えずに運転するドライバーにガサツさを感じる。
人が心地よくなることをみんなが心がけてすればいいのに。
そうすれば世界はもっと居心地がいいはず。

おそらく、運転手はあまり車酔いしないのだろう。
だからそういったガサツさにも気づかない。
僕は比較的車酔いしやすい体質なので、こういうことに気づく事ができているんだろう。
自分の気づいている事には、心がける事ができるが、気づいていないことに関しては心がける事ができない。
自分の見えないガサツさに恐怖を覚える瞬間である。

そんな事を心の奥で考えながら、ふとセックスについて考えてみた。

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文系か理系か

2月 4th, 2010

妻が、とあるブログか何かで、文系と理系の人の傾向を書いている文章を読んで来て教えてくれた。

理系の考え方は
ある事がらに5%の間違いがあった場合、正しいとは言わない。

しかし、文系の考え方では
ある事がらに5%の間違いがあった場合、大体正しいという言い方をするそうである。

で、あるから理系の人とコミュニケーションする時は、理系の考え方を理解する必要がある。云々。。。

という事が書かれていたらしい。

僕はこれは全然違うなあという事で、いつもの論調で反論し始めたわけである。笑
ちなみに妻も僕も理系だが、妻は僕ほど理系的な考え方はしないと感じているらしい。

そもそも、文系、理系がこうだというわけ方は間違っている。
上記の5%云々という事は、本当は、
「論理的に思考できない人」と「論理的に思考できる人」の違いであると思う。
5%の違いをよしとする考え方は、そのものについて単純に真剣に考えていない。

例えば、幹細胞を使った治療があるとしよう。
その治療を受けて治るかも知れないが、5%の確率でガンになるとしたら、その事について「大体大丈夫です。」と患者に説明するだろうか?
そんな事はありえない。

例え文系の事がらだって、5%の違いにこだわらずにいい仕事はできないと思う。
例えば、法律とか経済、芸術のこととか、何もこだわらずに済ましてしまっていると発展も進歩もない。
5%の違いにこだわるからいい仕事ができるんじゃないだろうか。

僕が言いたいのは、5%の違いをうやむやにして、あまり考えない方が良しとする考え方はおかしいということだ。

もちろん、すべての事を真剣に考える必要はないと思うし、5%の違いを柔軟に考える必要性はコミュニケーションを円滑にすすめる際には必要だとは思う。

何でもかんでも真剣に取り組む事が嫌がられる風潮があるけれども、僕はあつくるしく思われようが自分の感じている5%の違いを大事にしたいと思うのである。

地球外生命体は存在するのか?

9月 19th, 2009

誰しもがUFOや宇宙人の話を聞いて夢を抱いた事があると思う。
宇宙に果たして生命はいるのだろうか?
あなたは
いるとおもう派?
それとも
いないとおもう派?
僕は
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すべてを否定しない生き方

7月 14th, 2009

僕は、何かを否定をするという生き方がとてももったいないということに最近ようやく気付いた。

そういったことをとても分かりやすく書いてあるのが、すべてを否定しない生き方 (男のVシリーズ)という本だ。音楽家の東儀秀樹さんが書かれている。東儀秀樹さんはたまたま仲良くなった近所のお母さんのご親戚だそうで、妻がこの本を借りてきた。僕は中身はほとんど読んでいないのだが、タイトルを読んだだけで何が書かれているか分かった。多分本に書いている字づらだけを追っても分からない人には分からないんじゃないかと思う。僕は気になるところだけピックアップして読み、それが自分の最近考えていることとかなり一致していたので、後は読む必要もないだろうと思い読まなかった。

僕は、今の歳になるまで何かを否定するという生き方がとても無駄なことであるということに気付かずにすごしてきてしまった。とてももったいないことだと思っている。何かを否定する事で得られるものは何もないのである。

否定する事は反感を買う。

否定する事で自分が失敗できなくなる。

否定する事で、自分がパーフェクトでなければいけない。

そういった混乱の中に自分を追い込んでしまうわけである。

誰かを否定する時間があれば、誰かのいいところを見つけたり、もっといいアイデアを提案したり、自分の実力を磨いている方がよっぽどいいわけである。

他人を否定する事で自身も身動きができなくなってしまうという現実に気付くのはとても大事だと感じている。

食べるという事

5月 30th, 2009

僕たちは生き物だから食べないと死んでしまいます。

気がつけば毎日、毎日食べています。

ブログを書かない日でも毎日必ず食べています。

一日何も食べないでいると空腹で辛いです。

一日何も食べないくらいでは死なないだろうけど、おなかが減りすぎてそんなこと無理です。

僕たちはそんな事もコントロールできないくらい生き物なのです。

もし、空腹を感じなかったら僕たちは何も考えずに何時間かおきに食事をしないといけなくなるかも知れません。

そうなると食事の時間はそんなに楽しくないかもしれません。

もし、食べる事が栄養を補給するだけなら、僕たちは完璧なカロリーの完璧な栄養素が入った一番安い食べ物を定期的に食べればいいのかもしれません。

そうすれば経済的にも、体の状態を保つにも最も効率の良い方法でしょう。

しかし、それだけでは食欲というものは満たされないんじゃないかと思います。

呼吸欲というのがあって、酸素は足りていても呼吸をする動作をしなければその欲求が満たされない。

おぼれそうになった時に呼吸欲を満たすために水を呼吸する変わりに飲み込むと少し息が持つのが長くなるそうです。

それと同様に、カロリーや栄養を満たす以外にも、食欲というのがあって、食べるという動作をしないと満たされない欲求が存在しているのかもしれない。

案外そういった食欲が肥満になる原因の一つとなっているかもしれない。

そういった食欲をきちんと満たす食事がどんなものであるのか考えて見ると、この世界には間違った食べ物がたくさん生み出されてしまっているような気がしてきた。

おっぱい好き

5月 21st, 2009

僕はおっぱい好きである。

この世で一番おっぱいが好きといっても過言でないかもしれない。

本物のおっぱいのような動きをするおもちゃがあったら一日中いじり倒しているかもしれないくらいおっぱい好きである。(つまり妻はあまり触らせてくれない。)

そんなおっぱい好きな僕だが最近ちょっと気になる事がある。

知り合いの女性と話している時に胸元を手で隠される割合が高い気がする。

ふだんの何気ない視線がバレテイルノダロウカ?

あまり見てないはずなのだが胸元を手で隠されると気になるなあ。

意識すればするほどどこに目線をやっていいのか分からなくなる自分が嫌だ。

いつもの獲物を逃がさない本能が仇となってしまっている。

おっぱい好きすぎてそのうち透視能力がついてしまうんじゃないかと未だに中学生のような発想をしている自分が好きだったりする。

客観的

5月 20th, 2009

客観的

思えばこの言葉にずいぶん振り回されたかもしれない。

僕は思いっきり理系人間なので、物事を客観的に見たり、科学的に見るということにこだわってきた。

そして、物事を客観的に見れると信じてきた。

カナダの木の写真

カナダの木の写真

しかし、自分が客観的に物事を見れると思っているということは怪しいものである。

科学だってかならず主観の部分は入ってきているわけである。

その現象がなぜ面白いのか、なぜ研究する価値があるのかなんて考えていたら必ず主観的な嗜好などの部分に衝突する。

人が関わるもので完璧に客観的になれるわけがないのである。

今の僕は、物事を客観的に見れるはずがない、できるだけ客観的に見るように努力し続ける必要がある

という立場である。

何億、何兆通りも物事の見方がある中ですべてを吟味して客観的に考えるなんて不可能である。

不可能であると知っているほうが、可能であると偽りの客観的を信じるよりもいい気がする。

なぜ美しさを追わなかったのか

5月 13th, 2009

これは今まで生きてきた反省なのだが、僕は今まで美しさとかかっこよさをちゃんと追い求めてこなかったように思う。

猫

今まで自分の感情からくる欲求よりも、物事を合理的、理論的に捉えようとすることにこだわりすぎてきたような気がする。

それはなんだか節約に似たような気持ちで、美しさを求めて無駄づかいをするくらいなら、美しさを求めずに合理的な方法を選択するというような感じだった。

何かをするときには、いつもお金に制限を受けてきた僕は根っからの貧乏体質を持っているようだ。

しかし、よく考えてみると人は合理的に生きる為に生きているわけではない。

究極まで合理的にしてしまったら人は存在する意味がなくなってしまう。

例えば、子供を育てるという行為は合理的にお金を節約するという気持ちからは成り立たない。

お金のことばかり気にしていたら子供なんて育てられるわけがない。

子供がいる喜びを感じられるから子供を育てるのだろう。

そういった気持ちは美しさなのではないかと思う。

仕事に関しても合理的な側面だけを重視していたら美しくない仕事をしてしまうだろう。

美しさを追求するという事はとてつもなく無駄遣いで大変な事なのかも知れない。

しかし、それを乗り越えてでも、自分の感情からくるうつくさにこだわって物事を成し遂げるという気持ちがなければ生きている価値が薄れてしまうのではないかと思う。

できるだけ美しさにこだわりたいなと思うようになってくると、今まで自分では正しいと思っていたやり方の中に醜いやり方があったということに気づいてくる。

そう、美しくないだけではなく醜いやり方を僕はいくつもしでかしてきてしまった。

非常に恥ずかしく、みっともない事だった。

残念ながら今まで僕は気づくことができなかったんだけれども、これからは少しでも美しさを追い求めて生きてみようと思う。

ただし、理論や合理的な考え方も捨てない。

節約が悪い事でないように、理論や合理的な考え方も悪い事とは思えない。

けちで節約をしてお金を貯めても、最終的に何に使うのかが大事である。

要するに向かう方向が間違えなければいい。

理論や合理的な考え方を駆使して、より美しいものに到達できればいいなと思う。

シロアリ

5月 12th, 2009

友達の会社にシロアリがわいたそうである。

このシロアリ、アリという呼び方をするがアリではなくゴキブリ目に属するのだそうである。

シロアリが住み着いたらもう駄目だそうだ。

駆除するのは大変だろうなあ。

ふと、シロアリを駆除する業者の事を考えてみた。

シロアリ駆除業者が成り立つためにはシロアリが繁殖してくれないと困る。

経営が苦しくなってきたらどっかの家に放火じゃないけど、放シロアリしてしまう悪徳業者もでてくるかもしれない。

放シロアリされてしまった家はたまったもんじゃない。

高い金払ってシロアリ駆除してもらわないといけなくなるだろう。

自分達の利益を守るためには人の不利益を無視してもいい方程式が成り立つ。

そういうところが資本主義経済の限界だと思うのだがどうだろう。

今の資本主義経済は、人が良心を持って行動しているから何とか保てているが、経済的に厳しい状況になってきたら、生活苦に負けて悪徳になる人たちも増えてくるかもしれない。

国同士で放シロアリをやりあったら世界シロアリ戦争勃発なんて事態も起るかもしれない(笑)。

しかし、そういうことを止めようとする良心みたいな気持ちはなぜ湧いてくるんだろう。

理屈と芸術

5月 8th, 2009

理屈って言うのはどんどん世界を単純化してわかりやすくする作業で芸術は世界をどんどん複雑化する作業なんじゃないかなとふと思った。

例えば、お店とかでもショッピングモールとかチェーン店は理屈でできていて、できるだけ便利で簡単なものにしている。どこに行っても同じ店で同じものが売っていて買い物もしやすい。一方、個人で経営している居酒屋とかパン屋は経営者のいろいろなやり方があってルールもさまざま。そういうのは芸術的なものなんじゃないかな。

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理屈を追求していけば、どんどん物事は便利になるけどつまらなくなる。

芸術を追求していけば、どんどん物事が不便になるけどおもしろくなる。

パソコンて面白くて、本来パソコンは理屈でできているので面白くもなんとも無いんだけど、人がネットにつないで使うことによってどんどん複雑にして面白くしている気がする。理屈からはじまって人の手が複雑にして面白さがでてくる。

僕は生物学を学んでいるんだけれども、生物を研究していくということは、生物を理屈で理解できるように単純化しようとする作業であるんだけど、生物というのはそれ自体が芸術のような複雑さを持っているからおもしろいのかな。

人が美しさや面白さを追求していけば物事はどんどん複雑になっていくから、ややこしくて不便になるんだけど、人は生き物だからそうしたくなる。それが芸術かもしれないな。

美しいとか、魅力的だとか、かわいいとかそういう気持ちというのは複雑でややこしければややこしいほどうまれてくるものなのかもしれない。