6月 19th, 2009 by matsujun1
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今娘が学校で時計について習っている。
うちの娘はめちゃくちゃ絵を描っくのは上手なのだが、数字に関わる事は苦手なようだ。
対照的に息子はめちゃくちゃ数字に強く2歳近く上の娘よりもよく理解している。その代わり絵は苦手。
同じ環境で育っても興味が異なればここまで頭の中が違うのかと思う。
で、僕もみかねて少し勉強を教えたりする。
まあ、勉強というのはできる事を繰り返しやらせて自信をつけさせる事が一番大事じゃないかと思う。
自信さえつけば教えなくても自分で勉強するようになるだろう。
できない事をいやいやながらやらせるよりもいいと思う。
で、時計を教えるのだが、子供はまだ時間という概念が頭に入っていない。
しかし、よく考えてみると時間というものはおかしなものである。
なぜ一日が24時間、一時間が60分と決められているのだろうか?
それは、365日24時間60分60秒なんて社会で他の人と話す時に伝わるように決められたルールなだけである。
例えば、日本とアメリカとヨーロッパで時間の単位が違っていたら時差などもあるし大変なことになっていたことだろう。
もしも、一日が12時間、一時間が120分だったとしたらもっとゆったりした生活をしているかもしれない。
一日のうちに一周しか時計が回らない。
朝3時におきて11時くらいに寝る。一時間が2時間分あるので大分アバウトな感じになるだろう。
もしも、一日が48時間、一時間が30分だったらかなり忙しい生活をしているかもしれない。
一日のうちに時計が4周もするわけだ。
「16時間も寝ちゃったよ」とか寝すぎな気がして、15時間、14時間、ついには10時間睡眠が標準睡眠時間になってしまうのではないだろうか。
なんていうのだろう。なんか人間てついついキリのいいところで考えたがると思うので、もし時間の刻み方が違っていたら世界の様子が全然異なっていたかもしれない。
6月 2nd, 2009 by matsujun1
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僕の読んだ本はとにかく部屋が片付けられない人がどうやったら部屋を片付けれるようになるかという掃除本
でした。
僕の家はそこまでひどくは無いけど、キレイさに自信があるわけではない。
ちょっと気を抜いて生活してしまうと、本にあるようなゴミだらけの生活になるかもしれないなという気がした。
どうやら掃除は捨てるということが大事らしい。
捨てるかどうか判断するということは結構精神的なものに関わっていると思う。
自分が大事だと思っているものを捨てる勇気というものはなかなか持つことは難しい。
これは自分の癖や嗜好なども同じである。
よくない習慣やよくない考え方はどんどん捨てていったほうがいいだろう。
また、掃除もただキレイにすることが目的であれば、キレイにしたまま使わなければいい。
しかし、使わないのであればキレイにしている意味が無い。
理想のキレイさとは機能的で整理整頓されている状態だと思う。
そう考えると、よく使うものはよく見るところ、よく使う場所に配置して、使う頻度が少なくても確実に必要なものは奥深いところにしまいこんでいてもいい。
あまり使わないものを自分の周りから遠ざける(捨てる)というのは物理的にも精神的にも必要なことなんだろうなあ。
普段の何気ない行動をもう一度見つめなおしてみようかな。
5月 30th, 2009 by matsujun1
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僕たちは生き物だから食べないと死んでしまいます。
気がつけば毎日、毎日食べています。
ブログを書かない日でも毎日必ず食べています。
一日何も食べないでいると空腹で辛いです。
一日何も食べないくらいでは死なないだろうけど、おなかが減りすぎてそんなこと無理です。
僕たちはそんな事もコントロールできないくらい生き物なのです。
もし、空腹を感じなかったら僕たちは何も考えずに何時間かおきに食事をしないといけなくなるかも知れません。
そうなると食事の時間はそんなに楽しくないかもしれません。
もし、食べる事が栄養を補給するだけなら、僕たちは完璧なカロリーの完璧な栄養素が入った一番安い食べ物を定期的に食べればいいのかもしれません。
そうすれば経済的にも、体の状態を保つにも最も効率の良い方法でしょう。
しかし、それだけでは食欲というものは満たされないんじゃないかと思います。
呼吸欲というのがあって、酸素は足りていても呼吸をする動作をしなければその欲求が満たされない。
おぼれそうになった時に呼吸欲を満たすために水を呼吸する変わりに飲み込むと少し息が持つのが長くなるそうです。
それと同様に、カロリーや栄養を満たす以外にも、食欲というのがあって、食べるという動作をしないと満たされない欲求が存在しているのかもしれない。
案外そういった食欲が肥満になる原因の一つとなっているかもしれない。
そういった食欲をきちんと満たす食事がどんなものであるのか考えて見ると、この世界には間違った食べ物がたくさん生み出されてしまっているような気がしてきた。
5月 28th, 2009 by matsujun1
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大学の研究室に所属していると留学生がやってくる。
僕が以前に所属していた研究室にもフランスからポスドクの留学生がやってきた。
僕は大して英語は得意でもないが、僕自身留学したいと言う気持ちが強かったので英語の練習の為に下手な英語を駆使して積極的に話しかけていたものだ。
留学生もフランス人だから英語のネイティブでないので、フランス訛りの英語なのだが、英語でコミュニケーションをとるしか方法はない。
ある時、食べ物の話になった。
留学生が、
「フランス人はドッグを食べるのだが、日本人はドッグを食べないのか?」
と聞いてくるので「へ?ドッグ?」
いっしょにいた大学院生と僕はびっくりして、何度も聞き返したが「ドッグを食べる」という。
グルメの国フランス。カタツムリまで食べるのだから、犬くらい食ってもおかしくないのかもしれない。
僕たちは、
「韓国人は犬を食べると聞いたことがある。」とか
「赤い犬がおいしいらしい。」とかできる限りの犬食情報をフランスの留学生に伝えた。
そしたら、
「フランスにはドッグの缶詰がある。今度持ってくるから一緒に食べよう。」
と言い出すではないか。
「犬の缶詰ーーーー!うえっ!そんなものあるのか?」
正直食べたくない一品である。
しかも、犬の肝臓の缶詰らしい。
犬の肝臓が缶詰になっていると想像しただけでなんだか食欲がうせる。
しかし、フランスの留学生はおいしいと言い張り、どうしても今度持ってくるので一緒に食べようということになった。
後日、彼がありがた迷惑の犬の缶詰を持ってきてパーティーが始まった。
いったん犬の缶詰はお湯で温めてから開けるらしい。
そんなことしたらそうとう臭いがきつくなるんじゃないかと僕たちは恐る恐る見守っていた。
フランスパンに塗って食べるらしくフランスパンのスライスが大量に用意されている。
正直、フランスパンだけ食べたいなあと涙目になりながら待っていた。
ついに犬の缶詰が開けられた。
その缶きり臭くならないのか?心配していた。
缶詰の中身をみると、なんとそれは3大珍味の一つ「フォアグラ」だった。
僕たちがドッグの缶詰と聞き取っていたのは「ダックの缶詰」
そう、ダックの肝臓=フォアグラだったのだ。
しかし、缶詰を開けるまで気づかないとは。
恐るべし言葉の壁
5月 27th, 2009 by matsujun1
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僕は甘栗とかはっさくが好きだ。
今、カナダに住んでいるので3年以上も食べてないなあ。
あなたは甘栗とはっさくにはまるで共通点がないと思われるかもしれない。
しかし、これら2つの食べ物の共通点は剥いて食べるということがある。
なぜか僕は手で剥いたりする手間がかかる食べ物が好きなのだ。
甘栗を親指のつめで傷をつけてパカっとうまく割れた時の感触は最高である。
はっさくもひと房ひと房剥きながら食べるので少しずつしか食べれない。
そして、さっきまで皮に包まれていたものを剥いた直後に食べるというのは非常においしく感じる。多分本当においしいのだろう。
剥くのが難しければ難しいほどいいのかもしれない。
剥いた甘栗をパックにして売っているのなんて食べる気がしない。
あんなもの食べたって屁しか出ない。
また、セックスも夏場より冬場の方がいい。
なぜなら、たくさん服を着ているからだ。
ちなみに僕は脱皮中のカブトムシの皮を剥いて死なせてしまったことがある。
話は多少それたかも知れないが、ああとにかく僕は剥くのが好きなのだ。
5月 21st, 2009 by matsujun1
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僕はおっぱい好きである。
この世で一番おっぱいが好きといっても過言でないかもしれない。
本物のおっぱいのような動きをするおもちゃがあったら一日中いじり倒しているかもしれないくらいおっぱい好きである。(つまり妻はあまり触らせてくれない。)
そんなおっぱい好きな僕だが最近ちょっと気になる事がある。
知り合いの女性と話している時に胸元を手で隠される割合が高い気がする。
ふだんの何気ない視線がバレテイルノダロウカ?
あまり見てないはずなのだが胸元を手で隠されると気になるなあ。
意識すればするほどどこに目線をやっていいのか分からなくなる自分が嫌だ。
いつもの獲物を逃がさない本能が仇となってしまっている。
おっぱい好きすぎてそのうち透視能力がついてしまうんじゃないかと未だに中学生のような発想をしている自分が好きだったりする。
5月 20th, 2009 by matsujun1
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客観的
思えばこの言葉にずいぶん振り回されたかもしれない。
僕は思いっきり理系人間なので、物事を客観的に見たり、科学的に見るということにこだわってきた。
そして、物事を客観的に見れると信じてきた。

カナダの木の写真
しかし、自分が客観的に物事を見れると思っているということは怪しいものである。
科学だってかならず主観の部分は入ってきているわけである。
その現象がなぜ面白いのか、なぜ研究する価値があるのかなんて考えていたら必ず主観的な嗜好などの部分に衝突する。
人が関わるもので完璧に客観的になれるわけがないのである。
今の僕は、物事を客観的に見れるはずがない、できるだけ客観的に見るように努力し続ける必要がある
という立場である。
何億、何兆通りも物事の見方がある中ですべてを吟味して客観的に考えるなんて不可能である。
不可能であると知っているほうが、可能であると偽りの客観的を信じるよりもいい気がする。
5月 18th, 2009 by matsujun1
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大学生の頃、みんなで桂浜というところに自転車で行ったことがある。
砂浜に座ってみんなでクラスの出し物の話し合いをしたりして楽しく過ごした。
しかし、その帰りに一人が自転車の鍵を砂浜に落としてしまったと大騒ぎになった。みんなで広い砂浜を探し回るがまったく見つからない。
自転車の鍵を壊してしまうしかないなと相談していると、江藤君が「自転車の鍵は実は数種類しかないから他の人の鍵を試してみたら開くかも知れないよ」といいはじめた。
へーそうなんだと思いながら見ていると、江藤君は自分の自転車の鍵を鍵を失くしてしまった自転車に差し込んだ。

そんな簡単に開くわけないだろとみんなで見守っていると、
「カシャ」という音とともにカギが開いた。
「えええええ~!」
とみんなで目を丸くして驚いた。
江藤君すごいじゃんということで江藤株が急上昇した。
しかし、よく考えてみると、江藤君の鍵をその自転車に使うと江藤君の自転車が使えなくなってしまうのであまり意味がなかった。
結局、自転車の鍵を破壊して帰ったのだが、手品師のような江藤君のカギの事は忘れられない。
5月 15th, 2009 by matsujun1
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それほど親しくなかった高校の同級生にクロピンとサネイがいます。
クロピンはすごく貧乏な家庭で、いつも小さすぎる汚い学ランを着ていました。向かい島に住む同級生はみんなフェリーで学校に通っているのに一人だけ尾道大橋を一時間も遠回りして自転車で通っていました。100円のフェリー代を親が払ってくれないからでした。クロピンはいつもくさい臭いがしていました。おなかの調子が悪いのか時々おならのくさい臭いが臭ってくるのです。当然みんなからは好かれることはなく、性格もおとなしくしゃべっているところをほとんど見たことがありません。だけれども勉強は得意で、怠け者の僕なんかよりはるかに成績が優秀で数学はいつも90点位取っていたと思います。彼が答案を返してもらう時にいい点数だった時にガッツポーズをして喜ぶ表情は今でも忘れられません。
そんなクロピンが昼食の時間に、弁当を食べずにうつむいています。それに気づいたサネイが声をかけていました。
サネイは貧乏な家庭ではないけれども、微妙に人と付き合うのが下手で、理由は分からないけれどもなんとなく男子からは嫌われている存在でした。
話を聞いていると、どうやらクロピンは弁当を持ってくるのを忘れてしまったらしいのです。クロピンは何も食べずに椅子に座ってうつむいていました。弁当を忘れたら学食に行って食べればいいのですが、クロピンはお金を持っていません。それに気づいたサネイがお金を貸してやるから食べてくればと声をかけていました。ところが、お金を借りても返せれないから。。とクロピンは断っています。
そうです。クロピンは親から一銭も小遣いをもらったことがないのです。だから、お金を借りても返すことができない。僕は相当気の毒で仕方がありませんでした。
僕とサネイは二人で数百円づつクロピンにあげる事にしました。二人で何とか説得してクロピンはようやくお金を受け取り学食に行きました。
僕はその時、そんなやさしいサネイの男気を見直しました。そして、サネイがなんでみんなから嫌われているのだろうと不思議に思いました。
今考えると僕の高校生活は能天気にも女の子にもてるためだけに生きていたような浅はかな高校生だったと思います。高校3年の時には自分の夢を追いかけるために受験勉強に没頭して他の事は何も考えませんでした。今考えるとそういう状況はとても豊かな環境だったのだと思います。クラブ活動や受験勉強の辛さなどたいした辛さじゃないなあと思います。僕がそれほど荒れた気持ちを持たずに生きていられるのもそういった恵まれた環境があったからじゃないかと思います。もっと感謝して、人間としてやれるだけの事はやらないといけないなあと今更ながらに思います。
クロピンは成績優秀だったけれども、家庭の事情で大学に行く事ができずに地元の小さな会社に就職したはずです。クロピンの事を考えるとなぜか申し訳ない気がしてしまいます。どこに原因があるのか分からないけれども、そういった悲しい家庭で育つ子供ができてしまうことを何とかしないといけないと思います。親が働いていなかったのでしょうか。借金を抱えていたのでしょうか。ギャンブルや酒で浪費していたのでしょうか。クロピンが心に抱えていた傷は途方もなく大きかったと思います。クロピンがまだどこかでガッツポーズをしている事を願います。
5月 13th, 2009 by matsujun1
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これは今まで生きてきた反省なのだが、僕は今まで美しさとかかっこよさをちゃんと追い求めてこなかったように思う。

猫
今まで自分の感情からくる欲求よりも、物事を合理的、理論的に捉えようとすることにこだわりすぎてきたような気がする。
それはなんだか節約に似たような気持ちで、美しさを求めて無駄づかいをするくらいなら、美しさを求めずに合理的な方法を選択するというような感じだった。
何かをするときには、いつもお金に制限を受けてきた僕は根っからの貧乏体質を持っているようだ。
しかし、よく考えてみると人は合理的に生きる為に生きているわけではない。
究極まで合理的にしてしまったら人は存在する意味がなくなってしまう。
例えば、子供を育てるという行為は合理的にお金を節約するという気持ちからは成り立たない。
お金のことばかり気にしていたら子供なんて育てられるわけがない。
子供がいる喜びを感じられるから子供を育てるのだろう。
そういった気持ちは美しさなのではないかと思う。
仕事に関しても合理的な側面だけを重視していたら美しくない仕事をしてしまうだろう。
美しさを追求するという事はとてつもなく無駄遣いで大変な事なのかも知れない。
しかし、それを乗り越えてでも、自分の感情からくるうつくさにこだわって物事を成し遂げるという気持ちがなければ生きている価値が薄れてしまうのではないかと思う。
できるだけ美しさにこだわりたいなと思うようになってくると、今まで自分では正しいと思っていたやり方の中に醜いやり方があったということに気づいてくる。
そう、美しくないだけではなく醜いやり方を僕はいくつもしでかしてきてしまった。
非常に恥ずかしく、みっともない事だった。
残念ながら今まで僕は気づくことができなかったんだけれども、これからは少しでも美しさを追い求めて生きてみようと思う。
ただし、理論や合理的な考え方も捨てない。
節約が悪い事でないように、理論や合理的な考え方も悪い事とは思えない。
けちで節約をしてお金を貯めても、最終的に何に使うのかが大事である。
要するに向かう方向が間違えなければいい。
理論や合理的な考え方を駆使して、より美しいものに到達できればいいなと思う。