マイマイカブリ

7月 11th, 2009 by matsujun1 1 comment »

僕は子供の頃はとにかく虫や生き物が好きで、一日中公園や草むらに行って虫を捕まえて遊んでいた。そして、両親が買ってくれた「学習図鑑」と言うものを、何度も何度も眺めたり読んだりしてた。(参考昆虫 (ニューワイド学研の図鑑)

なかでも、特に「生き物」「さかな」「昆虫」「飼育」「動物」などがお気に入りだった。とにかくこいつらは表紙がぼろぼろになるくらいまで読みまくった。他の男の子が好きな「のりもの」とか「車」とかそういうのはまったく読まなかった。僕は絵を眺めるだけではつまらなかったので、書いている事を解読していたらいつの間にか文字も読めるようになっていた。僕の好きな単語は「サメ」とか「かぶとむし」とか「カニ」とかだった。

中でも衝撃的だったのが「マイマイカブリ」だった。マイマイカブリがカタツムリの殻の中に首をつっこんで肉にかぶりついている大きな挿絵があった。しかも、その図鑑によると、マイマイカブリはカタツムリの肉を溶かす唾液をはいて食べるそうなのだ。

僕は、カタツムリは自分の身を守ろうと硬い殻を作って持ち運んでいる。なのに今度はうまくカタツムリの殻の中に首を突っ込んで食べる生き物がいる。そういったことにとても衝撃を受けた。

そして、そういった虫を実際に見つけるのが僕の仕事だった。あの図鑑の世界が実際に世の中に存在する事なのかとても興味があった。そして、僕はある日、マイマイカブリを見つけた。道路の真ん中で車にひかれていたのだ。そこで注意深く辺りをみまわして、乾いた側溝の中にたくさんマイマイカブリがいる事を発見した。夢中になってマイマイカブリを捕まえた。

僕は実物に出会ったことで図鑑を眺めていたときよりも多くのことを学んだ。マイマイカブリは思ったより動きが早くへんてこな歩き方をする。これだけ早く動くとなると、カタツムリのような動きの遅い生き物はいちころにやられるだろうなあ。もしも自分がカタツムリだったらとてつもない怖い生き物だとか想像した。

しかし、マイマイカブリはなんとも気持ち悪い。実物を見て満足した僕は、好きだった恋人にある日突然幻滅したような感じでマイマイカブリに興味はなくなった。

>>マイマイカブリの写真などはこちらが詳しいです。

木を登る道具

7月 1st, 2009 by matsujun1 7 comments »

僕がまだ6歳くらいだった頃、望みが丘団地と言うところに住んでいた。

どういったつながりで知り合ったのか忘れたが、その近所に同い年の友達が住んでいた。

今考えると、その子は庭付きの一戸建ての家に住んでいたので、おそらく僕よりも裕福な家庭の子であったと思う。

狐っぽい色黒の顔は思い出せるが名前は出てこない。

そんな彼が家の庭でかなづちを使って何かを作っていた。

何を作っているのか尋ねてみると、木を登る道具だと言う。

2枚の板を釘で打ち付けてハサミのようなものを作りそれを使って木を登るのだという。

すごいものを作るんだなあと感心した僕はしゃがみこんで作っている様をずーっと眺めていた。

できあがったら、使わせてもらおうなんて甘い期待を抱きながらみていた。

しかし、木を登る道具は一向に出来上がらない。子供の腕の力は非力なので釘が全然板に入っていかないのである。

そうこうしているうちにその狐顔の友達は塾に行かなきゃ行けないと言って立ち去った。

そして、僕が彼の代わりにその釘を打ち付けておく事になった。

最初はなんだかトントンする音が楽しくて、作業をしている雰囲気を喜んでいた。

しかし、なかなか釘が入っていかない状況にあっという間に飽きてしまった。

作業はだんだん雑になり、釘やら板やらどこもかしこも殴りつけていた。

日が暮れてきて辺りは暗くなってきた。

帰らないといけない時間である。

ぼくはふと、もっと高いところからたたけばもっと力強く打てるのじゃないかと思い、立ち上がって思いっきりかなづちを振り上げてたたきつけた。

かなづちはバチーンと言う音がして板に当たった。

僕はもう一度振りかぶりよく狙いを定めて釘を打ち付けた。

今度はガチッと言う音がして釘が半分くらい入った。

同じようにしてもう一度釘を叩いた。

すると今度はあっさりと釘が全部板のなかに入っていった。

何だ最初からこうやっておけばよかったなどと思いながら、出来上がった木を登る道具を見てみた。

が、どうにもこうにも木を登る事に使うことはできそうにも無かった。

僕はそのガラクタとかなづちを庭に残して急いで家に帰った。

そして、その狐顔の友達とはそれからはあまり遊ばなくなった。

正確な時間の測り方

6月 20th, 2009 by matsujun1 6 comments »

子供に時間のことを教えていたら、次々に時間に対する疑問が湧いてきた。

例えば重さや長さなどはそれぞれ違う測り方が存在する。

それは、国王の親指の長さだったり、適当に基準を決めれるから可能だ。

だから文化によってさまざまな測り方ができるのでいろんな単位が存在する。

しかし、時間の単位はおそらく時計が発明されてから世界に広がったであろうから、世界共通の測り方をしているのだろう。

じゃあ、その時計はどうやって正確に時間を測定して、それをみんなが共有しているか。

基準になるはずの時計が正確に時間を刻まなかったら、みんなの時計はちょっとづつズレていってしまう。

地球の自転だって4年に一回閏年があるくらいだからそんなに正確に回っているはずが無いだろう。

どうやって基準を決めているんだろうか?

イギリスかどっかの偉い人が適当に秒針をいじって世界の標準時刻を決めているかもしれんなあ。

そこでちょっと調べてみた。

まず、みんなが持っているのはクォーツ時計というのがあるそうだ。水晶が発する周期的な信号で時刻を刻むらしい。月に30秒ほどズレが生じるので適度に修正する必要がある。

次に、原子時計というのがあって、こちらは精度の低いものでも3000年に一秒くらいしか狂わないそうだ。

原子時計を使って国際原子時(TAI)という正確な時間が決められているらしいのだが、これが地球の自転にわずかな不規則性があるので自転とのズレを生じるそうだ。

だから、正午に太陽が頭のてっぺんに来る時間と国際原子時とは差ができるので地球の自転にあわせた協定世界時(UTC)というのが作られているそうである。現在TAIとUTCの時間差は30秒ほどあるそうだ。

やっぱどっかのおっさんが時間を自転にあわせて微妙に調整していたんだなあ。

この自転の微妙なズレがあるというのは非常に面白い現象だなあと思う。

この微妙なズレがあるからこの世界が生じているのではないかと感じるのは気のせいだろうか。

365日24時間60分60秒

6月 19th, 2009 by matsujun1 No comments »

今娘が学校で時計について習っている。

うちの娘はめちゃくちゃ絵を描っくのは上手なのだが、数字に関わる事は苦手なようだ。

対照的に息子はめちゃくちゃ数字に強く2歳近く上の娘よりもよく理解している。その代わり絵は苦手。

同じ環境で育っても興味が異なればここまで頭の中が違うのかと思う。

で、僕もみかねて少し勉強を教えたりする。

まあ、勉強というのはできる事を繰り返しやらせて自信をつけさせる事が一番大事じゃないかと思う。

自信さえつけば教えなくても自分で勉強するようになるだろう。

できない事をいやいやながらやらせるよりもいいと思う。

で、時計を教えるのだが、子供はまだ時間という概念が頭に入っていない。

しかし、よく考えてみると時間というものはおかしなものである。

なぜ一日が24時間、一時間が60分と決められているのだろうか?

それは、365日24時間60分60秒なんて社会で他の人と話す時に伝わるように決められたルールなだけである。

例えば、日本とアメリカとヨーロッパで時間の単位が違っていたら時差などもあるし大変なことになっていたことだろう。

もしも、一日が12時間、一時間が120分だったとしたらもっとゆったりした生活をしているかもしれない。

一日のうちに一周しか時計が回らない。

朝3時におきて11時くらいに寝る。一時間が2時間分あるので大分アバウトな感じになるだろう。

もしも、一日が48時間、一時間が30分だったらかなり忙しい生活をしているかもしれない。

一日のうちに時計が4周もするわけだ。

「16時間も寝ちゃったよ」とか寝すぎな気がして、15時間、14時間、ついには10時間睡眠が標準睡眠時間になってしまうのではないだろうか。

なんていうのだろう。なんか人間てついついキリのいいところで考えたがると思うので、もし時間の刻み方が違っていたら世界の様子が全然異なっていたかもしれない。

掃除

6月 2nd, 2009 by matsujun1 4 comments »

僕の読んだ本はとにかく部屋が片付けられない人がどうやったら部屋を片付けれるようになるかという掃除本でした。

僕の家はそこまでひどくは無いけど、キレイさに自信があるわけではない。

ちょっと気を抜いて生活してしまうと、本にあるようなゴミだらけの生活になるかもしれないなという気がした。

どうやら掃除は捨てるということが大事らしい。

捨てるかどうか判断するということは結構精神的なものに関わっていると思う。

自分が大事だと思っているものを捨てる勇気というものはなかなか持つことは難しい。

これは自分の癖や嗜好なども同じである。

よくない習慣やよくない考え方はどんどん捨てていったほうがいいだろう。

また、掃除もただキレイにすることが目的であれば、キレイにしたまま使わなければいい。

しかし、使わないのであればキレイにしている意味が無い。

理想のキレイさとは機能的で整理整頓されている状態だと思う。

そう考えると、よく使うものはよく見るところ、よく使う場所に配置して、使う頻度が少なくても確実に必要なものは奥深いところにしまいこんでいてもいい。

あまり使わないものを自分の周りから遠ざける(捨てる)というのは物理的にも精神的にも必要なことなんだろうなあ。

普段の何気ない行動をもう一度見つめなおしてみようかな。

食べるという事

5月 30th, 2009 by matsujun1 6 comments »

僕たちは生き物だから食べないと死んでしまいます。

気がつけば毎日、毎日食べています。

ブログを書かない日でも毎日必ず食べています。

一日何も食べないでいると空腹で辛いです。

一日何も食べないくらいでは死なないだろうけど、おなかが減りすぎてそんなこと無理です。

僕たちはそんな事もコントロールできないくらい生き物なのです。

もし、空腹を感じなかったら僕たちは何も考えずに何時間かおきに食事をしないといけなくなるかも知れません。

そうなると食事の時間はそんなに楽しくないかもしれません。

もし、食べる事が栄養を補給するだけなら、僕たちは完璧なカロリーの完璧な栄養素が入った一番安い食べ物を定期的に食べればいいのかもしれません。

そうすれば経済的にも、体の状態を保つにも最も効率の良い方法でしょう。

しかし、それだけでは食欲というものは満たされないんじゃないかと思います。

呼吸欲というのがあって、酸素は足りていても呼吸をする動作をしなければその欲求が満たされない。

おぼれそうになった時に呼吸欲を満たすために水を呼吸する変わりに飲み込むと少し息が持つのが長くなるそうです。

それと同様に、カロリーや栄養を満たす以外にも、食欲というのがあって、食べるという動作をしないと満たされない欲求が存在しているのかもしれない。

案外そういった食欲が肥満になる原因の一つとなっているかもしれない。

そういった食欲をきちんと満たす食事がどんなものであるのか考えて見ると、この世界には間違った食べ物がたくさん生み出されてしまっているような気がしてきた。

犬の缶詰

5月 28th, 2009 by matsujun1 3 comments »

大学の研究室に所属していると留学生がやってくる。

僕が以前に所属していた研究室にもフランスからポスドクの留学生がやってきた。

僕は大して英語は得意でもないが、僕自身留学したいと言う気持ちが強かったので英語の練習の為に下手な英語を駆使して積極的に話しかけていたものだ。

留学生もフランス人だから英語のネイティブでないので、フランス訛りの英語なのだが、英語でコミュニケーションをとるしか方法はない。

ある時、食べ物の話になった。

留学生が、

「フランス人はドッグを食べるのだが、日本人はドッグを食べないのか?」

と聞いてくるので「へ?ドッグ?」

いっしょにいた大学院生と僕はびっくりして、何度も聞き返したが「ドッグを食べる」という。

グルメの国フランス。カタツムリまで食べるのだから、犬くらい食ってもおかしくないのかもしれない。

僕たちは、

「韓国人は犬を食べると聞いたことがある。」とか

「赤い犬がおいしいらしい。」とかできる限りの犬食情報をフランスの留学生に伝えた。

そしたら、

「フランスにはドッグの缶詰がある。今度持ってくるから一緒に食べよう。」

と言い出すではないか。

「犬の缶詰ーーーー!うえっ!そんなものあるのか?」

正直食べたくない一品である。

しかも、犬の肝臓の缶詰らしい。

犬の肝臓が缶詰になっていると想像しただけでなんだか食欲がうせる。

しかし、フランスの留学生はおいしいと言い張り、どうしても今度持ってくるので一緒に食べようということになった。

後日、彼がありがた迷惑の犬の缶詰を持ってきてパーティーが始まった。

いったん犬の缶詰はお湯で温めてから開けるらしい。

そんなことしたらそうとう臭いがきつくなるんじゃないかと僕たちは恐る恐る見守っていた。

フランスパンに塗って食べるらしくフランスパンのスライスが大量に用意されている。

正直、フランスパンだけ食べたいなあと涙目になりながら待っていた。

ついに犬の缶詰が開けられた。

その缶きり臭くならないのか?心配していた。

缶詰の中身をみると、なんとそれは3大珍味の一つ「フォアグラ」だった。

僕たちがドッグの缶詰と聞き取っていたのは「ダックの缶詰」

そう、ダックの肝臓=フォアグラだったのだ。

しかし、缶詰を開けるまで気づかないとは。

恐るべし言葉の壁

くりとはっさく

5月 27th, 2009 by matsujun1 8 comments »

僕は甘栗とかはっさくが好きだ。

今、カナダに住んでいるので3年以上も食べてないなあ。

あなたは甘栗とはっさくにはまるで共通点がないと思われるかもしれない。

しかし、これら2つの食べ物の共通点は剥いて食べるということがある。

なぜか僕は手で剥いたりする手間がかかる食べ物が好きなのだ。

甘栗を親指のつめで傷をつけてパカっとうまく割れた時の感触は最高である。

はっさくもひと房ひと房剥きながら食べるので少しずつしか食べれない。

そして、さっきまで皮に包まれていたものを剥いた直後に食べるというのは非常においしく感じる。多分本当においしいのだろう。

剥くのが難しければ難しいほどいいのかもしれない。

剥いた甘栗をパックにして売っているのなんて食べる気がしない。

あんなもの食べたって屁しか出ない。

また、セックスも夏場より冬場の方がいい。

なぜなら、たくさん服を着ているからだ。

ちなみに僕は脱皮中のカブトムシの皮を剥いて死なせてしまったことがある。

話は多少それたかも知れないが、ああとにかく僕は剥くのが好きなのだ。

おっぱい好き

5月 21st, 2009 by matsujun1 7 comments »

僕はおっぱい好きである。

この世で一番おっぱいが好きといっても過言でないかもしれない。

本物のおっぱいのような動きをするおもちゃがあったら一日中いじり倒しているかもしれないくらいおっぱい好きである。(つまり妻はあまり触らせてくれない。)

そんなおっぱい好きな僕だが最近ちょっと気になる事がある。

知り合いの女性と話している時に胸元を手で隠される割合が高い気がする。

ふだんの何気ない視線がバレテイルノダロウカ?

あまり見てないはずなのだが胸元を手で隠されると気になるなあ。

意識すればするほどどこに目線をやっていいのか分からなくなる自分が嫌だ。

いつもの獲物を逃がさない本能が仇となってしまっている。

おっぱい好きすぎてそのうち透視能力がついてしまうんじゃないかと未だに中学生のような発想をしている自分が好きだったりする。

客観的

5月 20th, 2009 by matsujun1 4 comments »

客観的

思えばこの言葉にずいぶん振り回されたかもしれない。

僕は思いっきり理系人間なので、物事を客観的に見たり、科学的に見るということにこだわってきた。

そして、物事を客観的に見れると信じてきた。

カナダの木の写真

カナダの木の写真

しかし、自分が客観的に物事を見れると思っているということは怪しいものである。

科学だってかならず主観の部分は入ってきているわけである。

その現象がなぜ面白いのか、なぜ研究する価値があるのかなんて考えていたら必ず主観的な嗜好などの部分に衝突する。

人が関わるもので完璧に客観的になれるわけがないのである。

今の僕は、物事を客観的に見れるはずがない、できるだけ客観的に見るように努力し続ける必要がある

という立場である。

何億、何兆通りも物事の見方がある中ですべてを吟味して客観的に考えるなんて不可能である。

不可能であると知っているほうが、可能であると偽りの客観的を信じるよりもいい気がする。